第4回:社会はスーパーマン基準で作られているから息苦しい。
一方のブログで記事を更新した。
「副業で成功している人は特別凄いスーパーマンではなくて、普通の人の中でも通勤とか、疲れたから今日はゆっくりしよう、なんて時間をつかって作業をしているだけだ」
という旨の記事だ。
ただ、私自身はその記事を書いているとき肩ががっくり落ちていた。
世の中というのは凄い。
1日は24時間しかない。「最低6時間は寝るべし」という医者の言いつけに従うならば、残るのは18時間。仕事では通勤時間を除いてもその半分の9時間がもっていかれ、風呂、飯など生命活動を除けば残る1日は片手に残るばかりだ。
それが普通なことが凄い。こなしながら趣味や娯楽、副業をこなすのが”普通の人”であることに驚く。問題は私がその普通のこともこなせないことだ、日々の仕事がまずイヤで仕方ない。
決して職場が悪いわけではない。
確かに給料は高いわけではないが、通勤の定期代はきっちり支給される。残業も少なければ、研修だって3ヶ月もあった(研修の内容をまだかけらも活かされていないことは現場の都合上仕方ないことだが)。現場だって教育前提で配属されるようなはからいがされているらしい。
ただただ自分が仕事ができなさすぎて困る。同期はあっさりとマスター、こなすようなことや、基礎的なことまでができない。「そんなこと教えるまでもないでしょ」「自分で調べればできること」ができず、時間を無駄に食う。
普通の人たちはそうしたことを平然とした顔でこなした上で、「ハラスメントが酷い」「残業が多すぎる」などのことで悩むのだろうが、自分の場合はそのステージにも立てていないのだった。
社会というものはそんな"普通"を基盤に成り立っているので、普通のこともこなせない私の肩がなんとも重いことは自然なこと。
「副業は普通の人が時間を作っているだけで、特別な才能がなくてもできる」?
ひとつの荷物もまともに持てない私に、果して副業、そこまでいかなくても何か別のこと。は抱えられるのだろうか。
社会の"普通"って偉くて凄いんだよ。それについていけない自分が哀しいくらいに